現代帝国主義

{一} はじめに

 はじめに簡単にレーニン帝国主義論、それのブハーリン、スターリン的展開を、とくに危機、危機論に絞りながら、要点的に見ていきたいと思います。同時にそのことを、第二インターと第三インターの産業合理化についての論争として提出して、そこからさらに次のように見ていきたいと思います。
 ひとつは「政治的危機」あるいは「政府危機」「経済的危機」というふうにつかもうとされてきたことの性格、それを通して大工業の破局として危機をつかむ。しかもその大工業の破局が、例の『資本論』の中での「絶対的矛盾」および大工業の破局そのものによって、これを死活問題とするという、要するに資本主義の絶対的矛盾とその廃棄の必然性のところの大工業の破局と死活問題を、あの個所だけではなくて、あの背後にある個所、『資本論』でいえば「大工業と農業」の個所、それを含んで大工業の破局をいかにつかむのかということで、絶対的矛盾の個所を「大工業と農業」の個所から照明をあてるように三点要約的に見ていきたいと思います。
 そこから、そのことが同時にブルジョア文明の野蛮性、初期のマルクスでいえば、一八五二年の『イギリスのインド支配の将来の結果』の個所で出てくるブルジョア文明の本来の野蛮性と資本主義の本国および植民地についてふれている個所、そしてそのブルジョア文明の本来の野蛮性と規定したものが、『資本論』の中では、種々の異なる多数の人達の、社会的に組織された生産過程の資本主義的形態を、自然発生的で野蛮な形態というふうに規定している。その大工業の破局という問題を、同時にブルジョア文明の本来の野蛮性の露呈、あるいは資本主義的生産過程の自然発生的で野蛮な形態であるという性格、それの露呈、暴露として破局をつかむということ、さらにこのことに関連して、三番目ですけれど、資本主義の創成期においては国家的暴力によって労働者を工場に繋ぎとめることが、土地からの離脱、分離と同じように進行した。しかし資本主義が次第に発展していくや、国家的暴力はむしろ発動されるのが例外的になる。慣習の力、あるいは「生産の自然法則」であるかのごとくうけいれていく労働者がうまれる。慣習の力、教育etc であたりまえのように、その生産過程をうけいれてゆき、国家的暴力はやはり発動されはするが、しかし例外のようになる。その個所。しかし背後にそれがいかに露呈していくか。もう一度資本主義の創成期、あるいはブルジョア文明の本来の野蛮性、それが暴露されていくかのように露呈し、国家的ゲヴァルトは単に例外ではなくなってゆく。そういう問題を大工業の破局という問題で、危機論の核心的問題点として、落としてはならない、しっかりと我々が引き出していかなければならない問題として見ていきたい。
 つぎに、対外的には国民として、対内的には国家として市民社会は現われるが、しかし国家、国民を市民社会は超えているという問題。あるいはブルジョア社会と国家、言いかえれば市民社会あるいはブルジョア社会の公的統括である国家、その公的統括は別の個所では(『ドイツ・イデオロギー』)行動形態というふうに言われたりしている。つまりブルジョア社会の公的統括であり、それイコールの意味をもって行動形態でもある国家、そしてそれは同時にいわゆる幻想的共同社会性の問題ですが、それを支配階級に属する諸個人にとっては発展の条件であるが、被支配階級にとっては全く幻想的な共同社会性である国家、そういうことをしっかりとつかむべき国家。国家を幻想的共同社会という場合に、仮象だとか、イデオロギー的だとかいうふうにボーンと把える人がありますが、被支配階級にとっては、国家という組織は全く幻想的である、共同組織体ではない。そして同時にそのことは鋭くは桎梏を意味するということ。被支配階級にとっては新たな桎梏を意味するというところにしっかりと注意をおいた国家、そういう国家の桎梏性が露呈しつつある。隠蔽されているのではなくて、いまや露呈しつつあるというふうにつかむべきではないか。そのことについての三点を見たいと思います。
 そしてそういう問題を通して何を革命していくのか、何が廃棄されねばならない根本原因であるのか、何を誰が廃棄するのか。どのように死活問題が立っているのか、ということを通してブルジョア的改良とプロレタリア的革命の決裂点をいま一歩深くとらえる。そして、その中において党を問題にするというふうな形で見ていきたいと思います。

{二} レーニン帝国主義論、それのブハーリン・スターリン的展開――危機論

  …………

{三} 大工業の破局(今日の危機の核心)と死活問題

 そこでしっかり注意して見なければならないのは、この帝国主義論において結局ブハーリンの国家資本主義トラスト論に一つの鋭い典型が出てくるわけですけれども、組織された資本主義、ヒルファーディングが第二インターの系列の中において組織された資本主義ということを問題にしている。ブハーリンの国家資本主義トラスト論は、はじめはスターリンもレーニンももちろん評価している。スターリンも『スターリン・ブハーリン世界綱領』の中で、この国家資本主義トラストという言葉が一個所か二個所出てくるように、スターリンも認めたかのように見える。しかしブハーリンとの闘争、その後の闘争において、ブハーリンも同じように組織された資本主義論に落ち込んでいる、という批判をスターリンはやり始めると思います。そこで出て来ているブハーリンの問題で、もっとも我々自身が鋭く問題にしなければならないのは、国家資本主義トラストというふうにまで組織されていく資本主義、その資本主義の組織性とは何か? 要するに、資本主義的形態をとった社会的労働、巨大な、単に個人的な労働の道具ではなくて、社会的な労働によってのみ操作される社会的労働手段、それと合体せしめられていく、巨大な労働者の厖大な数を組織した社会的労働の資本主義的形態、それは何か? ということが明確につかまれていないということが、同じ様に第二インターの過程では組織された資本主義論、資本主義が組織されるという、資本主義の組織性自身が社会主義に導くかのように理解して来た。というふうに第二インターも共通の問題点、欠陥的な問題点を持っているわけですけれども。
 さしあたり帝国主義段階における労働の巨大な組織化、その労働の巨大な組織性とは何か? これから大工業の破局の中で掘り下げていきたいと思う中心問題ですが、しっかりと危機論を次の事の中でつかむ。この組織性、巨大に発達してゆく労働過程の科学的過程への転化、そして社会的労働手段、つまり個人的な労働の手段ではなくて、多くの人達の共同によってのみ駆使されうる労働手段、そういう社会的労働手段の発達と共に、社会的に組織された生産体(社会的という意味は、もちろん多数の人達のことです。そういう意味が中心です。複数の人達)。今見た問題は、同時に第二インターおよび第三インターの産業合理化の把握の中でも見て来た問題だと思います。その第三インターの産業合理化把握も、「合理化の原因を!」ということでベルト・コンベアシステムetc.をあげて闘おうとし、労働組織の改編もあげて、それが原因だというふうにして、それと闘おうとしたけれども、その労働組織の改編は、生産力の発達の方法ではなくて、労働強化の方法であるというふうにつかんで労働組織の改編と闘うということであった。更に第二インターの産業合理化についての態度も、結局のところ、資本主義は組織化されつつあり、組織された資本主義は社会主義に導くということに集約されるようなものであった。
 今見た帝国主義論、レーニン・ブハーリン・スターリンに至っていく帝国主義論、この帝国主義論で要するに一国が巨大に資本主義へ組織されていって激闘に入る。しかもソ連邦の成立以後は更に狭まっていく世界市場において激闘していく。そしてそういうふうに、巨大な、多数の労働者を社会的に組織された生産過程が発達していくわけですから、そのことを大工業の破局と死活問題、ブルジョア文明の本来の野蛮性、それの露呈、そして資本主義の廃棄、廃棄の必然性、そういうこととして、危機の中に何をつかむのかという核心的問題として大工業の破局をつかむ。
 段階論については、要するに帝国主義段階をどこで理解するのかということについては株式会社に注目する。独占的株式会社、株式資本、そのことに注目していくということである。そして、それはいうまでもなく飛躍的に技術と労働の社会的結合の驚くべき飛躍を意味していると思います。鋭くは、資本所有と資本機能の分離ですが、そのことは同時に株式会社を単に資金集中の方法としてではなくて、資金調達の方法としてではなくて、宇野経済学の系統のある人達は、宇野弘蔵自身も最初はそうだったわけですが、遅れた国の例えばドイツの、進んでいる国イギリスに対する資金調達の方法のようにかつて氏は理解していたと思います。しかしそれはだんだんと鈴木さん的に訂正されていくわけですが、やはりそれは集中の方法である。集積とは区別された、他の個々のブルジョア達を滅していく集中。そういう意味において集中の方法として理解するということであると思います。それは、いうまでもなく飛躍的に巨大な社会的生産過程が登場するということだと思います。社会的に組織された、つまり巨大な多数の労働者を組織した生産過程が登場するということだと思います。だから同じ様に先ほどのブハーリン帝国主義論、国家資本主義トラスト論、驚くべき社会的に組織された生産過程の出現。その社会性、組織性、そのことが段階論的には株式会社に注目しつつ問題にするということをはじめに断っておきたいと思います。そこから、これからふれるのは、ほとんど原理論の領域のように見えますけれども、じつは飛躍的に増大した、大規模化したそういう社会的に組織された生産過程を問題にしていくということで注意してもらいたいと思います。
 ここで大工業の破局のところに入ります。これは三点にわたって注目したいと思います。

@ 社会的生産過程の結合と技術は労働者と土地を滅ぼすということによってのみ発達する(荒廃と衰弱)
 まず第一は、今の関連からいってこういう順序で見た方がわかりやすいと思います。まず第一は、労働過程の社会的結合と技術、あるいは社会的生産過程の技術と結合は、労働者と土地を滅ぼすということによってのみ発達する。『資本論』の個所でいいますと、「大工業と農業」の個所。労働力から掠奪する技術の方法の発達の一つ一つは、土地から掠奪する技術の方法の発達である。このことが第一。例の「絶対的矛盾」の個所では「労働力の際限もない濫費、それから社会的無政府性の破壊作用において荒れ狂う」という個所がある。そして「労働者のあたう限りの多面性、部分人間にかわって全面的に発達した人間にかえるということを死活問題にする」というのが出てくると思います。その個所では主として、その社会的無政府性が労働者のたえざる犠牲祭、労働力の際限もない濫費云々であげられていると思います。ところが「大工業と農業」の個所では、労働力の荒廃と衰弱、ということと共に、土地、土地を滅ぼす、土地の荒廃、衰弱をあげていると思います。そのようにつかまれている。そこにはこういう言葉の表現が行われている。「都市工業におけると同様に近代的農業においては労働の高められた生産力と増大された流動性とは、労働力そのものの荒廃と衰弱とによって購われる」。更に「資本主義的農業のすべての進歩は労働者から掠奪する技術の進歩でもある。一定期間土地の豊度を高めることにおけるすべての進歩は、同時にその豊度の永続的源泉の破壊における進歩である。例えば北アメリカ合衆国のように一国がその発展の背景としての大工業から出発するならば、それだけこの破壊過程も急速になる。それ故資本主義的生産は、それが同時にあらゆる富の源泉たる土地と労働者とを滅ぼすことによってのみ社会的生産過程の技術と結合とを発展させるのである」。つまり、ブハーリンが国家資本主義トラストというふうにつき出して理解しようとしたその技術と労働の社会的結合の飛躍的発展、そして帝国主義段階を理解する場合には独占的株式会社ということの中に、その形態を通して、社会的生産過程の技術と結合の飛躍、それを見るということは、すなわち社会的生産過程の技術と結合の発達が土地と労働者とを滅ぼすということによって進行する。大工業の破局を労働力の荒廃と衰弱、土地の荒廃と衰弱、そういうこととして理解する。そのことは、注意すべき点はいろいろあると思いますが、例えばスターリンの危機論はしまいには、もはや資本主義はサボタージュして、資本主義のもとでは生産力は発展することができないというガタツキ論にまでいきかねなネいようなものを持っているかと思います。そして結局その後で厖大な資本主義の発展が来ますと「一般的危機論」はショボンだりしたと思います。とくに戦後はそうだ。一般的危機といいながら、ものすごい資本主義の発達が見られる。そういうことの中で一般的危機というのが、もはや資本主義のもとでは、生産力の発達の高揚はないというように理解していた。一般的危機論のその面からの強調はほとんどパンクしていく。そして生産力と生産関係の問題も、もはや資本家自身が技術的な発達をサボタージュしはじめるんだというような種類の理解がおこなわれたりなどしたと思います。それに対してやはり我々がキチンとつかむべきは、すべての富の源泉である労働力と土地そのものの荒廃と衰弱によって技術と労働の社会的結合を発達させる、ということである。社会的生産過程の技術と結合が生産諸力の、その最も重要なものである労働力とそして土地そのもの、それを滅ぼす。滅ぼすという意味は、荒廃と衰弱。荒廃と衰弱という意味は、更にその意味を正確に知ろうとすれば、荒廃というのは豊饒性の破壊、豊度の破壊、土地豊度の永続的な源泉の破壊ということ。労働力の荒廃というのは、労働力の豊饒性、豊饒性というのは多面性。労働力という生ける人間の自然力の豊饒性、豊饒性の破壊がすなわち荒廃だ。衰弱という言葉をどう理解するのかというと、どんな面にしろその面からの濫費、土地の濫費、労働力の濫費、濫費による衰弱というふうに、荒廃と衰弱というのは今のように統一的に理解されうると思います。そして、そういう意味で不断に資本主義のもとでの社会的生産過程の技術と結合は、不断に土地と労働力そのものを荒廃せしめ、衰弱せしめる。そしてそのことが顕著に、誰の目にも疑いえないようにあらわれている都市、それは破局を示しているということを意味する。そして同時に、この個所において、「労働手段は労働者の抑圧手段、搾取手段、窮乏化手段として、労働過程の社会的結合は労働者の個人的活動、自由、独立の組織的圧迫としてあらわれる」という把握から今見た個所が展開されている。
 この労働過程の社会的結合と技術とが、社会的生産過程の技術と結合、その飛躍的発展が労働力と土地とを滅ぼす、あるいは労働者と土地とを荒廃せしめ衰弱せしめる。そして労働力の際限のない濫費、社会的無政府性において荒れ狂う、というふうにあらわれる。しかしこの個所では、その労働力の濫費は同時に自然を土地を滅ぼすのであるというふうに述べている。「大工業と農業」の中で。社会的無政府性は労働力および土地を滅ぼす。ここで言う社会的無政府性とは要するに巨大な企業が交換によって媒介された分業として、生産手段が労働しない人々によって私的に所有される。生産手段の私有者が同時に非労働者である。そういう資本家。つまり生産手段を私有し、かつ労働しない人たち。資本家。それは一方において労働力を買うわけですが、同時に原料etc.をも含めて他の資本家からその生産物をも買うわけですが、それは一定の排他的な生産部門においてある物をつくるわけです。従って生産手段の私有、かつ私有者が非労働者である、というそのことが社会的無政府性であり、それは交換によって媒介されている。交換によって媒介された分業にある。だからブハーリン的な国家資本主義トラスト論が、一国の内部では価値法則が消えたかのごとく、というのは奇怪な事である。社会的無政府性ということを一国の内部で否定することである。交換によって媒介された分業であるからこそ、ある生産部門にある資本家は、その生産部門である特定の生産物を作るということによって、その生産物は自己の消費の対象ではなくて他の人たちの消費の対象であって、自分の欲するものは他の人たちが生産しているものであって、交換しなくてはならない。これが社会的無政府性ということだと思います。そして、しかもそのこと自身の巨大な発達は、労働力と土地の濫費である。つまり欲望が増大すればする程、ある一つの分業において、ある生産物を熱狂的に作りだし、それとの交換によって他のものを手に入れることになるわけです。驚くべき濫費が進行する。しかも労働力の濫費は同時に、原料を使っているわけですから原料のおそるべき濫費。そしてそれは土地から土地の豊度の永続的源泉の破壊、荒廃。

A人間と自然との代謝の撹乱、都市労働者の肉体的健康と農村労働者の精神生活との破壊
 二番目はこういうことだと思います。「資本主義的生産は、それによって大中心地に集積される都市人口がますます優勢になるとともに、一方では社会の歴史的活力を集積するが、他面では人間と土地との間の代謝を、すなわち人間が食糧及び衣料の形態で処理する土壌成分の土地への復帰を、したがって永続的土地豊度の永久的自然条件を撹乱する。かくして同時にそれは都市労働者の肉体的健康と農村労働者の精神生活とを破壊する。しかしまた同時にそれはかの代謝の単に自然発生的に生じた状態を破壊することによって、この代謝を社会的生産の規制的法則として、また完全な人間的発展に適合する形態において体系的に復興することを強制する」。労働過程の個所では「この人間と自然との物質代謝」といわれたり、「質料交換」というふうにいわれたりする。この個所は、直接、労働を媒介にして労働との関連でいわれている。ここでの代謝、物質代謝、人間と自然との代謝〔を労働によって媒介し〕、その労働を通しながら土壌成分を生み出してゆく。それは同じことだと思います。労働は必ず、労働自身が自然質料にむかって(自然質料、土壌成分)、一定の労働手段をもって、人間が自然力を働かして欲望に適合した形態で自然を受けとろうとするわけです。従って、労働によって人間と自然との代謝を媒介するということは、同時にこの労働は自然質料にむかって働きかけられているわけですから、土壌成分、それから生産物として何物かを自然の加工として生み出し、かつそれを享受するということによって、また土地に還帰するという過程をたどる。人間はその自然力を駆使し、労働力を労働として発揮する、そのことによって必要な形態で受けとり、それを享受することによって、またその自然力の豊饒性に還帰する、こういう過程をもっているわけです。
 ところが、資本制生産、そしてその先ほどみた社会的無政府性、つまり生産手段の私的所有者が非労働者であるということ、そして単に私的所有者が生存しているということ、そしてその私的所有者たちは労働力を買いかつそれを自由に消費するということ、従って彼らは最も有効な土地に集中するということ、つまり都市を不断に拡大再生産せざるをえないということ、このことによって土壌成分は一方的に汲み出され、その一部は農民によって消費されつつも大多数は土地にはもはや還帰しない。土壌成分に還帰しない、復帰しない。土地ということは二つの意味に使われていることに注意しなくてはならない。土地、つまり自然的豊度をもった土地、これに還帰しない。そして都会の土地、これは何ものかを生み出す土地ではなくて、あるものが存在する場所だ。そういう意味をもっている。で捨てられる。こういう構造をもっている。そしてこれが人間と自然との代謝の撹乱ということだと思います。それが大工業の破局として突き出されていくものは、都市労働者の肉体的健康と農村労働者の精神生活の破壊、『資本論』にはこういう言葉で要約されているのですが、エンゲルスの『反デューリング論』では別の表現になっている。エンゲルスは『資本論』の別の個所をあげつつ、しかしこれに注目してこういう表現になっている。「都会人の肉体的発達の基礎と農民の精神的発達の基礎とを破壊する」、こういう表現になっている。これはエンゲルスの読みこみを含めた表現の仕方ですが、しかしマルクスの表現の仕方とエンゲルスの表現の仕方とは一つのものとして読めると思います。というのは、中身を見てみますと、肉体的発達の基礎とは何か? 基礎が破壊されるということによっての肉体的健康の破壊ではないか。あるいは農村労働者の精神生活の破壊、あるいは精神的発達の基礎の破壊と、精神生活の破壊ではないのか、というふうに問題をたてた場合、今の代謝を問題にするということは、次のことを意味している。肉体的健康、都市労働者の、あるいは都会人の肉体的健康の基礎とは何か、何を言おうとしているのか。それは要するに自然の、つまり土地の豊饒性ということだ。そしてその土地の豊饒性、土地豊度の永久的自然条件は大工業によって撹乱される。社会的無政府性によって撹乱される。一方的に汲み出されるだけであとは捨てられる、こうなる。したがって都市労働者にとっては肉体的健康の基礎である土地、豊饒なる大地、その豊饒なる大地から離れて、自分の存在する土地、空気、水が有毒化する。要するに捨て場である。生み出す土地ではない。捨て場だ。だからそういう意味での公害は大工業の破局を示している。空気、水、土地の有毒化というふうにエンゲルスが『反デューリング論』で要約したもの、それは人間と自然との代謝、大工業はそれを破壊的に撹乱するんだ、と。それは先ほど「危機」の中心問題でみた、技術と労働の社会的結合の飛躍的発達、それは土地と労働者を滅ぼす。独占的株式会社の形態での社会的生産過程の結合と技術の飛躍、それを大工業の破局としてつかむならば、大工業の破局の第一は、社会的生産過程の結合と技術の発達は、ただ労働力と土地の荒廃および衰弱をもってのみ発達する。土地と労働者を滅ぼすことによってのみ発達するということ。そしてその衰亡、土地と労働者の衰亡こそ大工業の破局を端的にさし示すものである。これが第一。
 第二に、同様に社会的生産過程の技術的結合の飛躍は都市労働者の肉体的健康の基礎である自然としての大地の有毒化、空気・水・土地の有毒化として、あるいは農村労働者の精神生活の基礎である人々の交通、それの分散と孤立化という農村生活における破壊、人間と自然との代謝の破壊的撹乱として都市労働者の肉体的基礎の破壊と農村労働者の精神生活の基礎の破壊として突き出されている。これが破局の第二の問題である。
 この第一も第二も例の「絶対的矛盾」の個所で、「能うかぎりの多面性」とか「部分人間にとってかわる(に)高度に交替していく種々の仕事について、全面的に発達した人間をもってすることを死活問題にする」というように、死活問題で突き出されるわけですが、この第一の、大工業の破局の第一のものとしての、社会的生産過程の結合と技術がただ労働者と土地を滅ぼすことによってのみ発達するという、そのことから、社会的生産過程の結合と技術そのものが、労働者の手にとりもどさなくてはならないということを死活問題にし、そして労働力と土地の荒廃と衰弱の、その豊饒性の回復を死活問題にしている、ということとして死活問題を理解しなくてはならない。
 第二の問題も、労働過程の社会的結合と技術の発達が、巨大な人口を都市に集積するとともに、先ほど見た人間と自然との代謝を破壊的に撹乱するということによって、都市労働者の肉体的健康の基礎と農村労働者の精神生活の基礎を破壊するとするならば、この人間と自然との代謝の全的な恢復こそが死活問題になっている、というふうに死活問題もつかまれなくてはならない。そこでそれが「人間的発展に適応した形態で復活せしめるということを強制する」という『資本論』の言葉としてあらわれていると思います。これが第二。

B旧来の家族的紐帯の裂断
 第三の問題は、大工業の破局、しかもその破局を社会的生産過程の結合と技術の飛躍的発達のもたらすものとしてつかんでいく破局の第三は、一口にいって旧来の家族的紐帯の裂断ということ。このことを社会的に組織された生産過程の発達のもたらすものとしてつかむということ、このことの中にブルジョア文明の野蛮性をつかむということ、これが三番目の問題だ。『資本論』の個所でも家族のことについていろいろと展開されているわけですけれども、「旧来の家族の解体」だとか、「大工業と農業」のところでは「原始的家族紐帯の裂断」という表現になっていると思います。別の個所では、「旧来の家族の解体」というふうに出て来る。それは「家族労働の経済的基礎とともに旧来の家族を解体する」、そういう表現になっているのですが、家族労働の経済的基礎とは何かと言えば、典型的には厳密な意味での農民あるいは手工業者、典型的には農民、要するに生産手段の私有者が同時に労働者であるということ。家族労働の経済的基礎とは自己労働に立脚する私有、ただ労働と交換のみに基づく所有権、『資本論』でいえば、「自己労働に立脚する私有」、しかもその私有者が労働者である、端的にそういうこと。つまり所有者であって同時に働く者である。旧来の家族はこの家族労働の経済的基礎とともに解体する。家族労働が解体する。その家族労働の経済的基礎の解体とともに解体する家族とはこういうものだと思います。『家族、私有財産、国家の起源』、それからマルクスのそれについての『古代社会ノート』、モルガンの『古代社会』をマルクスなりに読んでそれをマルクスなりに整理した『古代社会ノート』、それはエンゲルスによって『家族、私有財産、国家の起源』に整理され提出されたわけですが、その中で父権の問題が出てくると思います。近代的にいえば親権ということ。父権。血縁婚的家族、これは母権である。これに対して対偶婚家族から一夫一妻婚で確立されてゆく父権。これは私有財産と結んでいるわけですけれども、典型的な文明的家族形態だけれども要するに所有者である父。そのもとに妻が隷属している。子供は両親によって育てられますから、子供は両親に隷属している。そういうfamily。familyという言葉自身についてもマルクスのノートの中にくりかえし出て来ますが「この言葉は一家の中での奴隷等々を含んだ言葉であった」。一家は奴隷をもっていた。明確な奴隷ばかりか所有者である父、父権、父の父権のもとに女房および子供は隠然と隷属している。その上にたって家族労働を展開し、かすかな両性の分業がおこなわれている。自然発生的な分業が行われている。両性および年齢の差異。子供および親のあいだの分業がかすかに行われている。そして家族労働が展開されている。この解体とともに家族が解体していく。その解体とは、いうまでもなく、おやじが、家庭のかなたに組織されている、社会的に組織された生産過程、しかし資本の下に支配されている生産過程で働くようになる。更に、女房、子供が働くようになる。そのことが要するに家族の解体。家族労働の解体とともに家族も解体する。そういうことである。
 そこで次の事に注目したいと思います。家族についてふれた『資本論』のこういう個所があると思います。「男女および種々様々な年齢の個々人からなる結合労働者の構成は、なるほど労働者が生産過程のために存在するのであって、生産過程が労働者のために存在するのではないところの、それの自然発生的で野蛮な資本制的な形態においては、荒廃および奴隷状態の禍源であるとはいえ、適当な諸関係のもとでは逆に人間発展の源泉に急変するに違いない」。つまり家族労働が解体し、それなりに生産の単位である家族、家族労働が解体し、そして解体を通してその家族の構成員は企業で働く。家庭のかなたに組織されている、社会的に組織された生産過程(資本のもとにある)、そこで働くようになる。家庭のかなたにある社会的に組織された生産過程の資本制的形態を、自然発生的で野蛮な、というふうに言う。そう規定していると思います。そして、この自然発生的で野蛮な資本制的な社会的労働の形態、その形態の下では、それは荒廃および奴隷状態の禍源である。そして自然発生的で野蛮なということを如何に内容的に規定しているのかというと、労働者が生産過程のためにあるのであって、生産過程が労働者のためにあるのではない。そうふれていると思います。つまりずっと問題にして来た、社会的生産過程の結合と技術、それが資本主義的形態の下ではいかなる禍をもたらすのか、ということで大工業の破局を見ようとする。そしてその独占的株式会社を通しての飛躍こそが帝国主義段階である、こうつかむ。そのことが同時に家族のすさまじい解体とは何か、ということとしてもつかまれなくてはならないということが今見ようとしたことだ。さしあたってそれの一つの直接的現実を要約化すれば、まずどんなふうに闘っても、その闘争の如何にかかわらず、資本主義的形態が廃棄されないかぎりは不可避的に貫いているものとしては、生産過程が労働者のために存在するのではなくて、労働者が生産過程のためにあるということ、これは廃棄されない限り不可避的にそういうものとしてある。しかもそのことは家族労働の解体とともに解体された家族ということとして関連して理解しなければならない。そして家族紐帯の裂断とは何かということをつかむように問題にしていかねばならない。一人一人の労働者は要するに人間的搾取材料である。生産過程においては主体として現われない。従ってそこに裂断を見ている。家族構成メンバーが、両親、子供が働きに出る、その働きに出る事情が今のような資本主義的な社会的生産過程である。それは家族労働がもっていた自然な理解の根底を破壊される。家族労働としての限られた父権、おやじの父権の下にあるそういう共同労働が資本主義的な共同労働に変わるということは、古い家族労働がもっていた相互の自然な理解のその紐帯は破壊される。要するに自分の労働と女房の労働と子供の労働との間には共同目的が存在しない。何ものかを生産するための共同の目的が存在しない。目的は資本家が、何をつくるかは資本家が決める。いかにつくるかも資本家が決めることである。共同目的に下に相互の労働を調整し、協働しているものではない。そこからくる、自由にして孤独という、自由な、二重の意味で自由なということが鋭くあらわれるということだと思います。生産手段から自由であって、労働力を自由に処分するという自由。そのことから女房は自分の労働を自由に処分し、おやじもそうし、子供は父権の下で奴隷商人のように売られるけれども(親権の濫用として)、しかしその親権の濫用は、資本が親権そのものを濫用でしか発揮させなくしている。やがて大きくなって成人に近づくならば、自分の労働力を自由に処分する、自由になるのだ。そういう意味で自由。しかしそれは先ほど見たような意味で売られてゆく。そして資本家によって自由に消費される労働力として売られる。売られる労働力である。そういうこととして孤独! 相互の無関心、無理解。無意味なもの、無意味なるが故に相互に無関心、こういうことだと思います。
 そしてそれを、マルクスがエンゲルスの天才的スケッチということで、国民経済学批判の稿と同時に、家族の復活のあらわれ、労働者の状態についてはエンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』の中でほとんどつくされているのでそれを参照するように、といって『資本論』の中で『状態』をそういう恰好で指摘しておりますが、あの中で典型的に本質的に読みとるものは、つまり資本制的形態の野蛮性、そしてそれは労働過程の技術と結合、社会的結合が飛躍的に発展すればするほど、ますます原則的につかまれなくてはならない。こういうものとしてつかむとすれば次のような領域があると思います。つまり不断の家内衝突、これを初期のエンゲルスは典型的につかんでいる。今見た資本制的な結合労働の野蛮性を踏まえてつかんでいる。無意味な労働、それへの家族成員の参集ということから出てくる不断の家内喧嘩、これは本質的な把握、特徴づけだと思います。両親自体が悪しき環境となる。それも本質的な突き出しだと思います。自然と同時に社会も環境であるとしてつかみつつ、子供にとって両親自身が悪しき環境となるという本質的な把握。そしてこの両親、母親は、子供に乳をやるという時間が充分にないということを通して、自分の子供に無関心になり愛情を知らなくなる。子供もそのことに慣れる。そしてその子供が、成長して家族を持つようになっても自分のつくった家庭に安んずることができないというのも本質的な把握だ。このことが自然発生的で野蛮な資本主義的形態の結合労働の、しかもそれの独占的株式会社の形態を通しての飛躍としてそれが拡大再生産される、そういうものとしてつかまなくてはならない。
 そこで三つみてきたわけですが、これをしめくくるように、社会的に、家庭のかなたで種々様々な年齢や男女によって構成されている結合労働体、それの自然発生的で野蛮な資本制的形態、それが今日のあらゆる荒廃と奴隷状態の禍源であるということ、それに即して簡単に今見たことを要約化していきたい。もちろんこの過程自身も、この様な野蛮な形態の下であれ、男女および種々の年齢の人が働くということを通して、家族および両性関係のより高度な形態の基礎をなす。そして今のような厭うべき家族の、家族的紐帯の裂断が進行するという、そのことがより高度な家族および両性関係の創造ということを死活問題にしている。そういうつかみかたをしなくてはならない。悲惨の中に悲惨だけを見ないということがここにおいても言えなくてはならない。それから同じことですけれども男女および種々の年齢の人たちの野蛮な形態である資本主義的形態の下での結合労働、そのことは別の形態の下では人間的発展に適合したものになるであろう、そのことも同じことだろうと思います。つまり、もしこれが労働者が自分自身に与えた組織形態として労働するならば、労働組織自身が資本によって与えられた組織ではなくて労働者が自分自身に与える形態として労働するならば、両性からのその労働への参加、婦人のその労働への参加、社会へ向けて拡がってゆく労働自身が人間を発展させていく手段になる。そして全体がそういう共同労働になるならば、その家族の関係は自由にして平等な関係になり、共同目的にむかってお互いに働いている関係になっている。そして古い原始的家族紐帯の下に存在した家族労働とは比較にならない、広大な全国全世界へ向かっての共同労働のなかにある両性および家族関係として、そういう全国的社会的な理解の基礎を獲得するであろう、自然な理解の基礎を獲得するであろう、ということもそのことは意味していると思います。

C ブルジョア文明の本来の野蛮性の露呈、あらゆる荒廃と奴隷状態の禍源(結合労働の資本制的な、自然発生的で野蛮な形態)の露呈としての大工業の破局と死活問題
 そこ、この禍源についてですが、禍の源、荒廃および奴隷状態の禍源としてつかまれた社会的生産過程の資本主義的形態、しかもそれは自然発生的で野蛮なというふうに規定されている。そのことを今まで見たことを要約するように見ていくと、自然発生的で野蛮なということは次の事を意味すると思います。そしてこの次の事が我々が結果から原因をという場合、原因とは何か。結果との闘争から原因との闘争をという場合に、原因とは何か、という原因の性格についてふれる。いままでずっと結果に即しながら見てきたことを、原因の性格としても見ていきたい。
 自然発生的で野蛮な資本主義的形態とは次のようなところに存すると思います。つまり『賃金、価格、利潤』では、労働する人々と労働用具との分離、こういう表現をしている。あるいは別の個所では、資本と労働とのこの種の交換。この種の交換といっているのは労働力と資本との交換ですが、それにとどまらず、労働力を資本と交換して、資本家の下で労働する。労働を渡す。労働力を渡し、かつ労働者がしているのは現実に労働を発揮し渡さなくてはならない。労働する、資本の下で労働する、この意味を含んで理解しなくてはならない。それが資本制生産また賃金制度の基礎というふうに言っている。あるいは、別のところでは、社会の経済的基礎の改造ということがでてくる。社会の経済的基礎は何かというと社会の経済的組織の基礎ということである。社会の経済的基礎の改造が革命であるが、社会の経済的基礎は社会の経済的組織の基礎あるいは社会の経済的構成の基礎である。それは生産手段の私有である。そしてまた別の表現では、第一インターの規約前文第二章の表現では「労働する人々が労働手段すなわち生活の源泉を独占するものに経済的に従属していることがあらゆる形態の隷属やあらゆる社会的不幸、精神的堕落、政治的依存の根本原因である」。そしてこれはバクーニンとの論争過程をも含めて、この労働手段は土地をも含むということが強調されている。いずれにしても次のように要約できる。自然発生的で野蛮な形態とは、社会の一方に(階級対立に立脚する社会とは何かいうことですが)生産手段を私有しかつ労働しない資本家、他方に、生産手段の所有を全く排除されて労働力の他には売るべきものを持たない単なる働き手である労働者とに分裂している限り、これが労働する階級と労働用具との分離である。土地を含む生産手段、労働手段さらに交通手段との分離だ、と。こういうふうに分裂し、この分裂と対立に立脚している社会とは、この社会に規定された生産は、不可避的に、生産手段を私有しかつ労働しない資本家が、生産手段の所有を排除された、労働力の他には売るべきものを持たぬ単なる働き手としての労働者から労働力を買い、そしてこの生産過程は資本家による労働力の自由な消費過程である、と。したがって不可避的に労働手段は労働者の抑圧手段、搾取手段、窮乏化手段、過剰化手段たらざるをえない。そして、労働組織は、労働過程の社会的結合は、労働者の個人的活動力、自由、独立の組織的圧迫、個人の無力性、萎縮としてあらわれる他はない、と。こういう構造になっている、不可避的にそういう構造になっている。これが自然発生的で野蛮な形態ということである。
 自然発生的のところは、今のところで視点の中心が浮かぶと思います。今のように、労働するということそのものが国家的ゲヴァルトによって強制されてきた。いずれにしても一たび労働用具と労働する人たちが分離されるや、その間の交換を基礎として不断に再生産される。そういう今見たようなこととして現れざるをえないということとして自然発生的。そして野蛮ということが、もうすでにその中に野蛮をはらんでいるわけですけれども、更に野蛮を突き出すように見れば、要するにそれは労働者が人間的搾取材料であって、労働する主人公ではないということ、これはまず徹底的である。その上に立って、その社会的結合は一人一人の人間の労働力、『資本論』の「労働過程」の言葉でいえば、人間の自然力、自然的質料にむかって駆使されていく人間の自然力、その自然力の豊饒性、豊かさ、それの一面化、部分化、そういう労働組織である。そこに端的に野蛮性が示されている。それを荒廃という。だからあらゆる荒廃と奴隷状態の禍源であるといっている。
 奴隷状態、これは要するに今見たように、生産手段の私有者でかつ労働しない資本家、それが労働力を買い、かつそれを自由に消費するという生産過程、したがってその労働力のいかなる面をいかなる形で使用するかというのは資本家の権利としてある、そういう生産過程。したがってその生産過程は、一人一人の人間のある特性、ある特性を極度に利用しつくす分業、そして、この資本主義的分業の最も醜悪な姿の露呈は、両性および年齢という人間の自然的差異を利用しつくすという点にあらわれる。つまり、もちろん人種等の問題もあるわけだけれども、両性、男女両性の差異および年齢の差異はいかなる人種・民族をも問わず自然的な、人間の自然的な差異である。その最も人間の自然的な普遍的な差異を、極度に利用するということで醜悪さの典型が示される分業、そういうものとしてある。そしてその他の先天的後天的なその個体の能力の差異、先天的後天的個体能力の差異を極度に利用する。さらに注意すべき点は『賃金、価格、利潤』の中で『資本論』を先どりするように、むしろかえって端的に要約した賃金についての個所、その賃金の限界を普遍的限界性、自然的限界性、生理的限界性として踏まえつつも、社会的・歴史的要素を強調していると思います。歴史的伝統および社会的慣習の違いによって賃金は違うと言っている。そのことは生産過程の中に根をもっているのであって、今見たような資本制的な社会的労働の形態は、一般的には男女両性および年齢の差異を醜悪に利用しつくす分業であるが、一人一人の個体の後天的先天的な差異を利用しつくす分業体系であると同時に歴史的伝統および社会的慣習、そういうことがもっている人々の差異をも利用しつくす。そして一人一人の人間の豊饒性を破壊していく。豊饒性とは多面性というふうに理解してもいい。多面的発達能力というふうに理解してもいい。自然力の豊かさだ。労働力としての人間の自然力の豊かさ、それの破壊。もちろんどこにも歴史的伝統・社会的習慣の化身がいるわけではないが、ある面をそういうものとして利用する。資本制的生産過程が資本家による労働力の自由な消費過程としてあり、したがってその社会的結合は資本によって代表され、資本の下に蓄積され、そして一人一人の特性をいかに利用し、いかに結びつけるかというのは資本の経済的権力に属している。経済的権力という言葉は「相続権」の中で端的に使われていると思います。所有、資本所有は経済的権力である。いずれにしても、この資本制的結合労働の自然発生的で野蛮な形態ということは、以上の点に要約できると思います。そしてそのことが、あらゆる荒廃と奴隷状態の禍源であるということは、今の点で一応輪郭が述べられたと思います。
 荒廃とは豊饒性の破壊であり、豊饒性の破壊が荒廃をもたらす。衰弱とは濫費による衰弱。あらゆる奴隷状態、隷属状態ということは今見た種々の差別を利用しつくす。そしてそれはすべて資本の下への隷属としてある。生産過程における隷属は、その人間の生き方、消費の過程をも貫き“いかなる職業の人である”というふうにあらわれる。そのことを今一歩強調点を突き出して述べてみますと、土地の豊度については豊饒性という言葉が理解しやすいと思います。人間についての豊饒性というのは理解しにくいというふうにも見えますが、しかし労働力、人間の自然力についての豊饒性ということを問題にしなくてはならないということは今見たことで一応でているわけですが、もっと端的にいってみたい。
 『資本論』の中にこういう個所がある。「未成熟な人間を単なる剰余価値製造機に転化させることによって人為的に生み出された知的荒廃、すなわち精神をその発達能力、その自然的豊饒性そのものの破壊なしに休耕状態におく自然発生的無知とははなはだしく異なる知的荒廃」これは未成年の労働についての荒廃について言っている。未成年、つまり成熟期にある人間を単なる剰余価値製造機に転化するということによって人為的に生み出された知的荒廃。この荒廃をどう規定し説明しているのかといえば、「精神をその発達能力、その自然的豊饒性の破壊なしに休耕状態におく自然発生的無知とははなはだしく異なって」といっている。精神を、その発達能力、その自然的豊饒性そのものを休耕状態にしているのは自然な無知だ。しかし能力を一面的に引き出され他の面を抑圧することによって破壊された豊饒性、そういう知的荒廃。単に開発されていないのではなくて豊饒性そのものを破壊する。だから専門奴隷というのは何を言うのかという場合、一番簡潔な深い意味は、端的に言えば荒廃ということである。それは発達能力、自然的豊饒性、多面性、それを非常に幼少の頃から一面を育てるために実は他の面を抑圧しているということによって、なぜそんなことが起きるのかというと、精神の力は肉体の中に宿っているわけですけれども、ある面を極端に使うということによって、その源泉である生ける人格性としての肉体そのものが衰弱していくわけです。そしてそのことをも含めて多面的発達能力の源泉が破壊されていく。
 そのことは次の点でも大切である。こういうふうにつかんでいくことだ。「学生はブルジョアだ」ということを早大の文書で革マルは書いておりましたが、これは本当に驚くべきことだと思う。その論旨はこうであったと思います。「学生は専門を身につけるということによって、優秀な労働力になるんだから、これは労働力の平均価値以上の価値として評価されるに至ることになる。労働力の平均的価値以上の価値として評価されるような労働力になる。だから学生はいわばブルジョア的である」、こういうふうに言った。しかしこのことは驚くべきことだと思います。『資本論』の中の個所で次のことが注目されねばならないと思います。「労働者の個人的消費は、労働者にとっては何ら生産的ではない。資本家にとってのみ生産的である」。労働者の個人的消費、衣食住はもちろん個人的消費ですけれども、医者にかかるということ、つまり医療サーヴィスを買うことによって消費するということ、さらに教育サーヴィスを買うことによって消費するということ、これも個人的消費である。そういう個人的消費は労働者にとっては何ら生産的ではない、非生産的である。なぜそうなのかというと、どんなに学生がその労働力を高級なものとするために専門性を身につけようと、しかもたしかに賃金が平均賃金以上に評価されようと、依然として労働力の生産費しかとっていない。労働力の生産費以上のものを少しも受けとっていない。生産費以上のものを受けとっていないということは「いわばブルジョア的」と「いわば」をつけてもそうは言えない、ということである。生産費以上のものをうけとるときにはじめて「いわばブルジョア的」ということが言える。どんなに専門性を身につけようと、教育サーヴィスを買うことは労働者自身にとっては非生産的であるというのは決定的である。つまり発達していくんではない。今見た自然的豊饒性の破壊、すでに見たような、労働の社会的結合の自然発生的で野蛮な資本制的形態、この野蛮は、専門を身につけて平均労働以上の労働を行なう高級な労働力になったとしても、その生産費以上にはうけとらない、したがってその労働者自身にとっては何ら生産的ではない、非生産的である。そのことだ。専門性を身につけて、専門的労働力として現に社会的に組織された生産過程において労働する。そして現にその専門的な労働を発揮するということ、そのことがはじまれば、ほとんどその人間はそこで停止する。発達をやめる。そういう意味を持っている。発達をやめるわけですから、学校に行かない人はだいたい十代のはじめで発達をやめる。そして学校に行く人はこんどは二十才すぎで発達をやめていく。それは何を意味するか。そこで豊饒性を破壊されていき、部分人間というのは先程もいったように自然的豊饒性の破壊です。多元的発達能力の破壊。とすると、早くいえば生きながらの死、それは荒廃ということだ。そういうふうに荒廃を理解しなくてはならない。
 それからもう一つ強調しておきたい点は、すでに今見た点で示唆されていると思いますが、こういうことです。それは「疎外された労働」(『経哲草稿』)の中に出てくる問題が『資本論』の中にいかなる形で出てくるのかという問題です。部落民、あるいは朝鮮人それぞれ異なった課題、それを今日いかに問題にしていくのかということで今まで見てきた問題をひとつ要約したいと思います。こういう文章がある。「私有財産に対する疎外された労働の関係から、さらに結果として生じてくるのは私有財産等々からの、隷属状態からの社会の解放が、労働者の解放という政治的な形で表明されるということである。そこでは労働者の解放だけが問題になっているように見えるのであるが、そうではなく、むしろ労働者の解放のなかにこそ一般的人間的な解放が含まれているからなのである。そして一般的人間的な解放が労働者の解放のなかへ含まれているというのは、生産に対する労働者の関係のなかに、人間的な全隷属状態が内包されており、またすべての隷属関係は、この関係のたんなる変形であり帰結であるにすぎないからである」。こういう個所、それが第一インターの闘争路線として結ばれている例の規約前文第二項に要約されていることだと思います。「労働する人々が労働手段すなわち生活の源泉を独占する人々に経済的に従属していることがあらゆる形態の隷属、あらゆる社会的不幸、精神的堕落、政治的依存の根本原因である」。それは先ほど見たこととして理解されると思います。つまり社会的に組織された生産過程の資本制的な、自然発生的で野蛮な形態は、労働者が生産過程のために存在するのであって、生産過程が労働者のために存在するのではないということ、そのことは何を意味するのかというと、労働手段を私有し、かつ労働しない資本家が、あらゆる生産手段の所有から排除されかつ単なる働き手であり、自分の労働力しか売るものを持たない労働者の労働力を買い、したがって不可避的に自然な結論として、資本家の下で労働し、その労働手段は、抑圧手段、搾取手段、窮乏化手段、過剰化手段たらざるをえず、そしてその組織は個人的活動力の基礎、自由、独立の圧迫手段たらざるをえず、労働者一人一人の自然的豊饒性の破壊としての一面化、そしてその一面化として利用される特性は、自然的生理的特性から先天的後天的特性からさらに歴史的社会的特性まで利用しつくす、そういうこととして理解されると思います。この労働者の生産手段、それの私有者への隷属の変容であり帰結である、そういうものとしてあらゆる種類の隷属がある、ということをつかむということ、それが先ほど見た、あらゆる荒廃と奴隷状態の禍源として結合労働の資本制的な、自然発生的で野蛮な形態をつかむということであったと思います。
 そしてそれの露呈として三点見たと思います。そしてその三点の露呈こそが大工業の破局であり、そのこと自身が結合労働をその手ににぎるということ、それはつまり土地を含む労働手段および交通手段を労働者が連合した手に共有するということ、それによって不可避となる、労働者が自分自身に与える組織形態として生産形態をもつ。そしてその労働は、したがって萎縮の手段ではなくて発展の手段になっている。全国的全世界的結合労働として、それへの参加こそが全国への参加であり全世界への参加であり、しかし一つの労働に従事するということが、どんなに今日では、資本と労働が流動しようと、ある生産につくということは他の生産についている人たちに介入しないということであり、そして自分に介入させないということである。全生産過程については自分が支配しているのはその排他的な生産部門だけであり、他の部門については不介入である。それに対して今見た結合労働の新たな形態は、ある部門に参加しつつも全生産部門の意識的な一環としてそれに参加しているということだ。全社会の生産の組織に自分自身が参加している。社会的に組織された生産過程をどう組織するかという作業自身に参加する。そういう意味を持っていると思います。そのことを死活問題にしている。根本原因ということはそういうことだと思います。根本原因、そしてプロレタリア革命の、何を革命するのかということは、要するにその点に絞られている。土地を含む労働手段、交通手段を労働者が連合した手ににぎるということによる自由な共同労働の実現、究極目的はそれだ。そういうふうに要約できると思います。そして一応そこまでで大工業の破局を直接的にブルジョア文明の本来の野蛮性の露呈としてつかむ。それを大工業の破局においてつかむ。そしてその破局の様相は、今日、歴然としたものとして先ほどの三点として拡大再生産されつつあるということだと思います。

{四} 国家(幻想的共同社会性)の桎梏性の露呈

(「パリ・コミューン100周年」四対外的には「国民」として対内的には「国家」として 参照)

  …………

(一九七一年三月講演/『著作集第二巻』所収)


目次に戻る